俺はいつも通り昼の十二時に起きた。朝食もそこそこにドラッグストアに走り一番効きそうな風邪薬と栄養ドリンク、スポドリとレトルトのおかゆをカゴにぶち込んだ。そして鬼気迫る表情で会計してまたアパートまで走った。
台所の換気扇の下でのんびりと煙草を吸っていたら十五時頃、男が目を覚ました。俺は急いで火の始末をして男に駆け寄る。
「大丈夫か?」
男は頭を押さえながら上半身を起こす。まだ風邪が治っていなくて頭痛がするのだろう。
「あんま無理すんな。風邪が治るまでここにいていいから」
男に「これ飲む?」とスポーツドリンクを差し出すと震える手でそれを受け取った。
「ありがとうございます……」
ここで男が初めて微笑んだ。その春の日差しのような柔らかな表情は俺の心を溶かすのには十分だった。その笑顔の破壊力で「お、おう」と俺は全く気の利かない返事をしてしまう。
男はペットボトルのキャップを開けてキュッと一瞬で飲み干してしまった。よっぽどノドが乾いていたのだろう。
「なんか食う? おかゆならあるぞ」
俺はドラッグストアのレジ袋をシャカシャカ言わせながらレトルトのおかゆを漁った。
「いただいても、いいでしょうか」
「いいぞ、たんと食え。じゃないと薬飲めないから」
俺はどこか浮き足立ちながら台所へ行く。男が俺に対して警戒心や遠慮があまりないのがちょっと嬉しい。「こんな美人に好かれてる?」なんて錯覚させるから。
おかゆをうつわにあけて電子レンジで温める。チンという音を合図に俺は電子レンジを開ける。そこにはふんわり湯気を立たせたおかゆがあった。
「お待ちどうさま」
どっかのコンビニでもらったプラスチックスプーンを引き出しから発掘して袋を破る。そのプラスチックスプーンとおかゆを持って男の元へ行き布団の脇に座った。
「熱いから気をつけろ。はい、あーん」
おかゆを掬ったスプーンを男の口元へ運ぶ。俺としては冗談として「あーん」をやったつもりだった。しかし、男はすんなりと口を開けて俺の「あーん」を受け入れた。俺は戸惑いながらもおかゆを男の口へ運び続けた。なんで俺が戸惑っていて、相手が当たり前のように食べているのかは全くわからない。もはやミステリーの域だろ。怖いよ。幸せすぎて怖い。
食後の風邪薬も俺の手から飲んでしまった。なんでそんなペットみたいな……と思ったとき、我に返った。いかんいかん、いくら相手が可愛くて嗜虐心をくすぐるからってペットだとか思うのはアウトだろ。
「汗でベトベトで気持ち悪くないか? 体、拭いてあげる」
俺は平静を装うため次にやることを思い出した。しかしこれがいけなかった。男は「かしこまりました」と言うと俺がいるのも構わず服を脱ぎ始めた。まずは白いセーターを脱ぎ、靴下を脱ぎ、セーターの下に着ていたワイシャツを脱ごうとする。しかし風邪で震える手では小さなボタンを外すことができなかった。俺が「手伝おうか?」と提案するとそれにも快諾し「お願いします」などと言う。
プチプチとボタンを外すと白くて滑らかな肌があらわになった。俺は変な気を悟られないように、できるだけ平静を装ってワイシャツの袖に通っていた腕を引き抜いて白い布を剥ぎ取る。そうすると俺は男のズボンのベルトにも手を伸ばす。
「雪でベタベタで気持ち悪かったろ? ズボンも脱がせてやるから」
男は黙ってうなずく。「いいのか?」と思ったが、男はむしろ俺に脱がされるのを喜んでいるようにも見えて俺も嬉しくなった。
――こいつは風邪で朦朧としているんだ……まだ俺がゲイだとバレてないし、男同士だからここまでさせるんだ
そう言い聞かせないと辻褄が合わないほど、男は俺に心を許していた。
ズボンもパンツも脱がせてやり、全裸になった男はどこかの美術館にある石膏像のように白くて美しかった。俺はドギマギしているのを悟られないように、いそいそと洗い桶に張った湯にタオルを沈めた。
そしてその温かいタオルを白い肌に這わせる。とりあえず上から拭いたほうが良いかと思い、首や手、腕や鎖骨、そしてなるべく乳首を刺激しないように胸板を拭く。
――理性が、持たねえ
俺は今、自分の顔を鏡で見たくない。そう思うくらいには歯を食いしばった険しい顔をしているだろう。
お腹や背中も拭いてやりついに下半身を拭くことになってしまった。俺ははち切れそうな理性を繋ぎ止めるため、あんまり男のものを見ないようにタオル越しの感覚だけでちんこを拭いた。
最大の難関を突破した俺は太もも、尻、膝、ふくらはぎ、足の甲、足の指を拭いてやりついに地獄の清拭は終わった。ドギマギしすぎて全体的にあんまりじっくり拭けなかった。これを後悔と呼ぶか幸運と呼ぶか、決めるのは未来の俺なんだろうな。
――死ぬ……
俺は燃え尽きそうなのを堪えて押入から古いパジャマを出した。
「これ、着とき。いつまでも裸でいられたら目に毒だ」
眉間を揉みながら俺はコタツの上の煙草の箱を引っ掴む。そして男から背を向けて煙草に火を点けた。
男はしばらくゴソゴソとパジャマを着ていたが、着替え終わったのかまた布団を被った。
「ありがとうございます、あなたは命の恩人です」
掛け布団越しにモゴモゴとそんなことを男は言う。
「そんな大袈裟な。こんなヤニカスタクシードライバーがそんなのになれるわけない」
「タクシードライバーなのですか? 街の人の足となる素敵なお仕事です」
その「素敵なお仕事です」という言葉は真っ直ぐだった。皮肉っているわけでも、おだてているわけでもない。
「変なやつだな、そんなこと言うなんて」
俺は照れ隠しに素っ気ないことを言ってしまう。
「お前、名前なんてーの?」
照れ隠しついでに名前をきいてみる。すると男は嬉しそうに名乗った。
「花平歩と申します」
「ハナビラ? 綺麗な名前だな。歩って呼んでいい?」
「ぜひ」
歩は声を弾ませて答えた。
「あの、あなたのお名前もうかがってよろしいですか?」
「ん、俺? 俺は雪垣智樹。智樹って呼んでくれ」
それを聞いた瞬間、歩は布団からガバッと上半身を起こして「やっぱり……」とつぶやいた。
「やっぱりって……お前、俺を知ってんの? 俺そんな有名人だったけ」
俺はそんな冗談を言ってからかった。しかし歩のほうは真剣な声色で俺に問う。
「お、覚えていないのですか? 私のこと」
「え? 初対面だよな」
後頭部をかきながらそう答えると歩はしょんぼりとしてまた布団を被ってしまった。
そのあまりの落ち込みぶりに俺までへこんでくる。いや、本当に初対面だよな? こんな俺好みの美人、一度会ったら忘れないはずだ。そう、谷崎潤一郎の小説『刺青』の清吉の恋みてえに五年経とうが忘れないだろう。
記憶のフィルムを遡ってもタクシー営業所のオッサンたちの顔しか思い出せない。あんな宝石みたいな男、出会ったら絶対に忘れない自信があるのにな。
煙草の煙を吐きながら「こんなに感情をかき乱されたのは久々だ」なんて思う。こんなに俺をおかしくさせるのは、サディストの俺にここまで世話を焼かせるのは
「お前に恋しているからだ、なんつって」
小声でつぶやく。しかし返ってきたのはスウスウとした寝息だけだった。
風邪が治ったら歩は出ていく。風邪は治ってほしい。けど別れは辛い。
――相当好きだな、歩のこと
でもこの恋もまた叶わないのだろう。二十代後半にもなると諦めることが心を守る方法だと心得てしまって嫌になる。
煙草はいやにしょっぱかった。泣いてなんかいない。
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